NINA RICCI・ニナリッチ通販 のバックアップ(No.4)
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- 1 (2013-10-19 (土) 00:47:36)
- 2 (2013-11-26 (火) 13:05:15)
- 3 (2014-09-06 (土) 23:45:34)
- 4 (2017-12-30 (土) 12:37:32)
ブランドヒストリー
NINA RICCIとはフランス・パリを拠点とするラグジュアリーファッションブランド、NINA RICCIのシグネチャーブランドである。1932年、イタリア人デザイナーのマリア・ニナ・リッチ氏と息子のロバート(ロベルト)氏によってフランスのパリにて創立された。1945年、ルーブル美術館でオートクチュールのファッションショーを開催。1946年には香水部門をスタート。つづいて1948年に発表された香水「レール・デュ・タン(L’Air du Temps)」が爆発的人気を博す。1998年よりスペインの巨大ビューティー企業「プーチ・グループ」傘下へ。2009年には、アメリカ大統領就任式においてファーストレディのミッシェル・オバマ氏が着用し話題となった。
NINA RICCIは1883年、イタリアのトリノ生まれ。幼時より服に興味を示し、人形の服作りに熱中。13歳の時、家族とともにパリに出て、お針子からスタート。18歳にアトリエのプルミエールを務めた後、宝石商ルイ・リッチと結婚。渡仏以来、、縫製や裁断の技術を磨き修行を重ね、「ラファン」店と共同で、米国のバイヤー向けに自作品の原型(プロトタイプ)を販売する。
1932年、自身の名を冠したメゾン「ニナ リッチ」をパリにオープン。ニナ リッチの服作りは独特で、デッサンを行なわずに、服地を直接に顧客の身体の上にかけながら、ドレープを寄せ、カットを施した。その手法から彼女は「彫刻家」と呼ばれていた。
1945年に経営を息子のロベールに任せてからは、ニナ自身はデザインに専念するようになる。ロベールの経営手腕や香水部門の成功などと相まって、「ニナ リッチ」は世界的なグランド・メゾンへと展開した。香水では、艶消しガラスの瓶に鳥をあしらった栓をした、48年の「レール・デュ・タン(時代の空気)」がスパイシーかつ清楚で優しげな香りが幅広い層に受け入れられ、今でも世界中でロングヒットを続けている。日本でもお見合いや合コンの定番香水としてヒット。
59年、ニナ リッチは老齢のため、創作活動から引退。後任にはジュール・フランソワ・クラエを起用。クラエがランバンに移ると、64年には、プレタポルテ界で活躍していたジェラール・ピパールがチーフデザイナーに就任。1970年ニナ リッチ死去。ピパールはブランドの総帥に任命された。また、ロベールは香水部門に集中し続け、1988年に亡くなるまで働いていた。
ジェラール・ピパールは就任後、「マドモアゼル・リッチ」のブランドでプレタポルテの分野を開拓。ピパールの功績もありブランドの躍進は続き、76年には、パリのジョルジュ・サンク通りに大きなショップを開店。さらに、79年には、パリのモンテーニュ通りに、新しいビルを建て、クチュール部門を移転させた。ピパールは、87年にデ・ドール賞を受賞。また、香水部門でも、「クール・ジョア」の発売以来、「レール・デュ・タン」など多くの人気商品を生みだし、高い評価を得た。
マッシモ・グイッサン家が、1988年にクラエーからブランドを買収。 マッシモ・グィッサンはデザイナーとして仕事をしたが、1999年から数年間、ナタリー・ジェルヴェがチーフ・デザイナーを務めた。2002年5月、アメリカ人ジェームズ・アギラルがチーフ・デザイナーに就任。2003年、チーフデザイナーに就任したスウェーデン人ラース・ニルソンがデザインしたニナリッチは、 評論家から不安定な見通しをもって迎えられた。彼は2006年初頭に突然再デザインを行い、 同年9月にベルギー人オリヴィエ・ティスケンスがチーフデザイナーに就任。2009年、ピーター・コッピング(Peter Copping)がアーティスティック・ディレクターに就任。 同年、アメリカ大統領就任式において、ファーストレディとなったミシェル・オバマにより着用された。
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出典: ファッション用語辞典『apparel-fashion wiki(アパレルファッション・ウィキ)』