カテゴリーメニュー
繊維種類・用語
生地種類・用語
皮革・毛皮
アイテム名称
シューズ・バッグ・小物名称
ディテール名称
縫製・加工・プリント
附属
ファッションビジネス
色名・色彩・柄・模様
その他用語
ファッションニュース
SHOP・BRAND
Application
ツールボックス
新しいページの作成
バックアップの表示
全添付ファイルの一覧
最近更新したページ
ヘルプ
インフォメーション
基本方針
参加方法
Apparel-fashion wikiに関するお問い合わせ
最新の20件
2024-03-22
Casual Dating Site
2023-12-12
ask for discounts
2023-07-04
アクリル
2023-05-29
Attiitude
2023-02-01
サイロスパン
精紡交撚糸
2022-05-24
ドレスコード
2022-05-09
オペラグローブ
ホワイトタイ
モストフォーマルウェア
セミフォーマルウェア
ブラックタイ
2022-05-05
その他用語
フォーマルウェア
手袋
2022-01-08
Meine Persönliches Informationen zu Casino Vorteile
2021-05-05
シューズ・バッグ・小物名称
2020-12-04
イブニンググローブ
イブニングドレス
2020-09-23
ローブデコルテ
最近削除されたページ
本文
編集
添付
名前変更
一覧
差分
凍結
RSS
Top
/
SHOP・BRAND
/
Christian Dior・クリスチャンディオール通販
Christian Dior・クリスチャンディオール通販 の編集
-- 雛形とするページ --
1×1針抜きゴム編
1本針オーバーロック
1/fゆらぎ理論応用商品
2
2×1針抜きゴム編
2本針オーバーロック
3
3C
3Dモデリングシステム
3K
3R
3R配慮設計商品
3×2針抜きゴム編
3/4カップブラ
4
4C
4P
5
5W1H
5W3H
5本指ソックス
6
7
7/8丈
8
9
20'sルック
30'sスターコワフ
30'sルック
40'sルック
50'sルック
60'sルック
70'sルック
80'sルック
A-2ジャケット
A.F.VANDEVORST・エーエフヴァンデヴォルスト通販
A.T・エーティー通販
A/W
ABAHOUSE・アバハウス通販
A BATHING APE・ア ベイシング エイプ通販
ABCD分析
ABC分析
ABS樹脂釦
AB体型
AC
AD
ADAM KIMMEL・アダムキメル通販
ADDITION ADELAIDE・アディッションアデライデ通販
ADIDAS×OKI-NI・アディダスオキニ通販
ADORE・アドーア通販
AE
AFTA
AFTERBASE・アフターベース通販
Ag
A GOOD TIME PRODUCTION・グッドタイムプロダクション通販
AGOSTO SHOP・アゴスト ショップ通販
AH
AHKAH・アーカー通販
AI
AIDMA
AIGLE・エーグル通販
ALAKAZAM!・アラカザム通販
ALBERTA FERRETTI・アルベルタフェレッティ通販
ALDEN・オールデン通販
ALDIES・アールディーズ通販
ALMOND・アーモンド通販
ALTAMONT・オルタモント通販
AMA
AMERICAN RAG CIE・アメリカンラグシー通販
AMERICAN RETRO・アメリカンレトロ通販
AMFステッチ
AMOS・エイモス通販
ANDSUNS・アンドサンズ通販
ANNA MOLINARI・アンナモリナーリ通販
ANNA SUI・アナスイ通販
ANNE VALERIE HASH・アン ヴァレリー アッシュ通販
ANREALAGE・アンリアエイジ通販
ANTEPRIMA・アンテプリマ通販
ANTONIO BERARDI・アントニオベラルディ通販
ANTONIO MARRAS・アントニオマラス通販
ANTONIO MURPHY&ASTRO・アントニオ マーフィー&アストロ通販
ANYA HINDMARCH・アニヤハインドマーチ通販
APC・アーペーセー通販
APEC
APPLEBUM・アップルバム通販
ARMANI EXCHANGE・アルマーニエクスチェンジ通販
ARMANI JEANS・アルマーニジーンズ通販
ARMED・アームド通販
ARTINERO・アルティネロ通販
ASEAN
ASH&DIAMONDS・アッシュ&ダイヤモンド通販
ASP
ATSURO TAYAMA・アツロウタヤマ通販
ATTACHMENT・アタッチメント通販
AURORA GRAN・オーロラグラン通販
AV
AVIREX・アヴィレックス通販
Ayame・アヤメ通販
B
C
...
***ブランドヒストリー [#x994460a] クリスチャン・ディオールは1905年、フランスのノルマンディーで裕福な実業家の家に生まれる。外交官を志して、政治学院に学ぶが、在学中に当時、台頭していたシュールレアリスムに魅せられ、友人と画廊を開設。ダリやコクトーなど多くの芸術家と親交を深めるが、30年代の恐慌に見舞われ失職。このとき、友人からデッサンを習い、1938年、ロゲール・ピゲに見込まれて[[モード]]界に入る。後に、ルシアン・ルロンのメゾンへ移るが、46年、マルセル・ブサックと出会い、12月にクリスチャン・ディオール・[[オートクチュール]]・メゾンが誕生した。ブサックは、繊維業界で成功した大富豪で、当時「コットン王」と呼ばれていた。ディオールはプサックに「エレガントな女性と最上級な女性のためのクチュリエになりたい」と語ったと伝えられている。この時、ディオールがプサックに会いに行く途中、ディオールは道に落ちていた星型の馬車の部品につまずく。それを拾って、ポケットに入れたままメゾン設立の夢を語った。以後、星はディオールののラッキーモチーフとなる。 47年、ディオールは初のコレクションで「コロール(花冠)ライン」を発表。これを、ハーパース・バザール誌の編集長カーメル・スノウが「ニュー・ルック」と呼び、この名前が広まる。[[ニュールック]]は、丸みを帯びた肩に胸、ウエストは細く絞られ、[[スカート]]は布を贅沢に使い(戦後すぐでモノがあまりない時代に)、[[ペチコート]]で膨らませたラインが踵まで伸びる女性らしさを引き出した華麗な[[スタイル]]だった。シャネルによって機能的な美しさがアピールされた後に、ディオールはフェミニンな美しさを改めて強調したのである。 また、1948年にはアメリカにおいてライセンス生産を開始。アメリカに「クリスチャン・ディオール・ニューヨーク」という別会社を作り、そこがニューヨークの靴下会社プレスティージ社と契約し「クリスチャン・ディオール」ブランドのナイロンストッキングの製造を許可した。これが、[[ブランド]]によるライセンス生産のはしりといわれている。後にライセンスは[[ネクタイ]]、下着、ソックス、[[アクセサリー]]と拡大し、80年代後半にはディオールは200を越すライセンスを抱えていた。また、同時にこの方式を婦人服にも応用し[[オートクチュール]]だけでなく、アメリカの既製服業者と組んで、ディオールのデザインによる[[ドレス]]を高級既製服、[[プレタポルテ]]としてアメリカでの製造・販売を開始した。[[オートクチュール]]から[[プレタポルテ]]へと拡大することで、ディオールはファッションを芸術だけでなくビジネスとしても成功させたのである。 続いて、48年にはジグザグライン、50年バーティカルライン、51年オーバル、52年シニュアス、53年チューリップ、54年Hライン、55年Aライン、56年アローラインと次々に発表し、センセーショナルを起こした。このシーズンごとに新しいラインを名づけて発表するというのもディオールがはじめたことである。これはマスコミにも受け入れやすく、一般大衆にもわかりやすくするためで、ディオールは戦後のファッション界が一部のお金持ちのためではなく、一般大衆の手にゆだねられることをこの時点で理解していたのである。1955年8月3日、ソルボンヌ大学大講堂でデザイナーとして初の講演を行う。ここで、ディオールは自らの仕事を「伝統を新しさの中に生かすこと」と語る。しかし、1957年10月24日ディオールは53歳の若さで心臓発作により急逝する。メゾンは若干21歳のイブ・サンローランが引き継ぐことになった。これにより、デザイナーの死後もメゾンは残り、[[ブランド]]を引き継ぐというビジネスモデルが成立することとなった。 サンローランは、確立されたメゾンの高度な技術に独創性を加え、初めてのコレクションでトラベーズ(台形)ラインを発表。多くの顧客に支持されたが、その後のホブル・スカート、60年秋冬の「ビートライン」は不評で、サンローランがアルジェリア戦争に徴兵されたのを機に、オーナーであるブサックは彼を解雇。マルク・ボアンをデザイナーに起用した。 マルク・ボアンは当時34歳。ジャン・パトゥのアシスタントだったときにディオールのロンドン店のデザイナーとして引き抜かれ、61年「スリムルック」、67年「サファリルック」、70年「マキシルック」で、従来からの顧客の支持を受け、デ・ドヌール賞も2回受賞した。 しかし、革新性にかけたデザインは徐々に衰退し、1968年には48年に設立された香水部門である「パルファン・クリスチャン・ディオール」がモエ・へネシー社に買収され、78年には親会社であるマルセル・ブサック・グループが倒産。ブサックは流通大手のウィロ兄弟によって救済され、アガッシュ=ウィログループに入るが、80年ブサックの死後、81年には公的救済(この時期のフランスは社会党政権)を求める事態となった。 1984年、ここにベルナール・アルノーが登場する。彼はフランスの投資銀行ラザール・フレールと組み、ついにブサック・グループを買収し、1985年4月1日、傘下のクリスチャン・ディオールを手に入れ、自らが社長となった。そして、1989年5月、次のデザイナーとして、イタリア人のジャンフランコ・フェレを[[オートクチュール]]とレディス・[[プレタポルテ]]、[[アクセサリー]]の責任者に据えた。フェレは1944年、イタリアに生まれ、ミラノ工科大学建築科を卒業。一部にはフランスのブランドがイタリア人をデザイナーに起用したことへの反発もあったが、89年7月のフェレによる初めてのコレクションである89秋冬オートクチュールコレクションにおいて、「[[ニュールック]]」をモチーフにしたデザインを発表し、デ・ドール賞を受賞。不安を吹き飛ばす。 さらにアルノーはライセンス生産も絞り込んだ。90年アルノーはLVMHの社長に就任。そして、96年ディオールは次のデザイナーとして、ジョン・ガリアーノを指名することとなる。当時、ガリアーノは同じLVMHグループの「ジバンシー」のデザイナーだった。彼はこのとき36歳、1960年ジブラルタル生まれのイギリス人で、6歳のときに両親とともに渡英。義務教育終了後、セント・マーチンスに入り、テキスタイルを学んだ後、ファッション科に移籍。卒業制作のコレクション「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンのブティック「ブラウンズ」のショーウィンドウを飾り、好評を呼んだことでブラウンズと5年間の契約を結ぶ。デビュー当初は[[ジャケット]]を[[ボトム]]に使った「さかさまの服」など、[[アバンギャルド]]さが話題を集めた。一方で、カッティングとバイアスの確かさにも定評があり、古典や世界中の衣装から、そのときのトレンド[[アイテム]]を巧みに自分のコレクションに取り込む能力が高く評価されていた。 ディオールに移る前に2シーズンだけジバンシーのデザイナーを勤め、ついに97年春夏、初のディオールコレクションを発表。ちょうど、ディオールが「[[ニュールック]]」を発表してから50年にあたり、ガリアーノは現代版[[ニュールック]]を発表。丸い肩で胸を強調し、パッドを入れた腰に細いウエスト。[[スカート]]がミニになったのが、現代らしさを表している。また、このときのテーマは「マサイ族」であり、後にこれが香水「ジャドール」につながっていく。 2000年春夏コレクションでは、ボロ布ドレスを発表。コレクションではモデル一人につき、1体のアイテムしか使用しない(モデルは着替えずに、着るのは1着のみ)という贅沢なコレクションを開催し、[[オートクチュール]]、プレタともに、現在のトレンドをリードする一人である。メンズは、ディオール・ムッシュのチーフデザイナー、パトリック・ラヴォワを経て、2001年1月からはイブ・サンローラン・リヴ・ゴーシュから来たエディ・スリマンが「ディオール・オム」を担当。 エディ・スリマン(Hedi Slimane)は1968年パリ生まれ。1997年、イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ オムのアーティスティック・ディレクターに抜擢され、2001-2002秋冬コレクションより、ディオール・オムのクリエイティブ・ディレクターを務める。2003年7月3年間の契約延長をし、メンズフレグランスのクリエイティブ・ディレクターも兼任する。日本でディオール・オムを扱っているのは、銀座、表参道、神戸、新宿伊勢丹、名古屋松坂屋、岩田屋の6店。 2004年7月、2005年春夏パリ・メンズコレクションにあわせてエディ・スリマンによるディオール・オムの新作フレグランス、Eau Noire、Cologne Blanche、Bois D’Argentの3つを発表。ディオール・オムのブティックなど全世界16店で発売される。価格は、500mlが160ユーロ、125mlが80ユーロ。また、12月には香料入りのろうそくが発売。Cologne Blancheは、ローズマリー、オレンジ、バーガモント、バニラノートを含み、Eau Noireは、普段エディ・スリマン自身が着用している香りで、バニラ、ラベンダーなど。Bois D’Argentは、ウッディ・フレグランス。2006年クリスチャン・ディオールの59年の歴史の中で初のメンズ・ビューティラインとなるメンズスキンケアライン「Dermo System」を開始。 2006年の後半からディオールとエディ・スリマンの契約交渉が難航しているとの噂が流れ、スリマンの契約は2006年7月に終了したが、更新されず、以後、交渉が続いていた。2007年3月、クリスチャン・ディオールは、Kris Van Asscheがディオール・オムのアーティスティック・ディレクターに指名されたと発表。クリスチャン・ディオール・クチュールのSidney Toledano社長兼最高経営責任者は、「私たちが既に持っている高品質チームとともにKris Van Asscheがディオール・オムの開発を行うことを発表できて、私は嬉しく思います」と述べた。 辞任直後にエディ・スリマンのコメントは発表されなかったが、2007年4月、エディは自分のサイトで「私は、一緒に仕事をしたミュージシャン、モデル、写真家、私のデザインを製造した人々、私のコレクションを支援した小売り業者すべてに感謝します。私はベルナール・アルノーに感謝します。彼は私を信頼して、このプロジェクトを私に任せてくれました。私はそれを開発できて幸せでした。彼が今でなくてもいつの日か私の決定を理解してくれることを望みます。今、私は、私の主義と私が持っているファッションについての考えに忠実にあることが非常に重要であると思いました。私はディオールからの親切な提案を拒否し、新しいディオール・オムの契約を断わる以外に選択権はありませんでした。2月の私の最後のショーの直後にこれを明らかにし、ロサンジェルスへ発ちました。私は、ディオールから去り、別な行動をすることを決定しました」とのコメントを明らかにした。また、2007年5月のLVMH株主総会では「なぜ、Hedi Slimaneはディオール・オムを去ったのか」という質問があり、ベルナール・アルノーはスリマンを引き留めるためにあらゆる努力をしたと言い、「彼は、私たちの経済的援助を得ずにシグネチャーブランドを開始できると考えたようです。私は、彼の新しい活動の成功を祈ります」と答えた。 アッシュは2007年夏の2008春夏パリ・メンズコレクションで最初のディオール・オムを披露。アッシュは[[プレタポルテ]]と[[アクセサリー]]を担当し、エディ・スリマンが手がけていたフレグランスとスキンケアは含まれない。「クリスチャン・ディオールはクチュールの絶対的なイメージがあり、アトリエの遺産およびユニークなこの家に参加できて、私は非常に嬉しい。この仕事は私の強力なベースになるでしょう」とアッシュ。 クリス・ヴァン・アッシュ(Kris Van Assche)は1976年、ベルギー生まれ。98年、アントワープ王立芸術アカデミー卒。エディ・スリマンのアシスタントとして、イヴ・サンローランとディオール・オムを7年間手がけ、2005年1月にはシグネチャーブランドを開始。2005年秋冬のパリ・メンズコレクションでデビュー。2007年春夏のコレクションでは、初めてレディスを数点発表した。シグネチャーラインは今後も継続される。 2009年10月末、ルイ・ヴィトンのコスチューム・ジュエリー・デザイナーだったCamille Miceliがクリスチャン・ディオールにおけるコスチューム・ジュエリーラインのアーティスティック・ディレクターとレザーグッズラインのマネージメント・アーティスティック・アドバイザーに就任。 Miceliは1971年生まれ。複数の有名[[ブランド]]でのプレスを経て、シャネルで7年を過ごした後、ヴィトンに参加。PR部門を率いている時に友人であるマーク・ジェイコブスが彼女の創造性に目をつけ、2004年春ヴィトンで最初のコスチューム・ジュエリー・コレクションを発表。ディオール・ファイン・ジュエリー部門のトップは引き続きVictoire de Castellaneが務める。 2009年12月、ディオール・オムのクリエイティブディレクター、クリス・ヴァン・アッシュは女性のための新ディオール・オム・デニムを発表。コレクションは「Petite Taille」(スモール・サイズ)と名づけられ、2010年に開始。ディオール・オムにおける初のレディスとなる。「ディオール・オムは常に女性にアピールしていました。したがって、私たちはディオール・オムジーンズのレディス・バージョンを発売することに決めました」とアッシュ。Dior Homme Petite Tailleデニム・コレクションは2010年初めに全世界のディオール・オムショップで発売され、価格は270-785ユーロ。 2011年2月24日の夜、ジョン・ガリアーノがパリのマレ地区のバー、La Perleでカップルに対し、ユダヤ人差別の発言を行ったとして逮捕された。ディオールはこれを受け、ジョン・ガリアーノのディオールでの活動休止を発表。「ディオールは人種差別主義的発言および行動を禁止しています。真実が明らかになるまで、クリスチャン・ディオールはジョン・ガリアーノの活動について休止させました」とディオールの最高経営責任者シドニー・トレダノ。その後、英大衆紙のThe Sunは自社のウェブサイトで2010年10月にガリアーノがLa Perleでユダヤ人差別発言をしているビデオを公開。このビデオでは明らかに酔っているガリアーノが女性に向かって、「アイ・ラブ・ヒトラー。あなたみたいな人たちは死ぬべきです。あなたの母親もあなたの祖先もガス室で死にました」と話している。 その後、クリスチャン・ディオールはジョン・ガリアーノを解任。「私は、ジョン・ガリアーノの発言を強く非難します。それはクリスチャン・ディオールが常に保持していた本質的な価値観と完全に矛盾します」とディオールの社長兼CEO、シドニー・トレダノ。ガリアーノに直ちにリハビリ施設に入院した。 2012年4月9日、クリスチャン・ディオールはラフ・シモンズがジョン・ガリアーノの後任としてアーティスティック・ディレクターに就任したと発表。ラフ・シモンズは[[オートクチュール]]、レディスの[[プレタポルテ]]、[[アクセサリー]]を担当。最初のコレクションは7月の2012年秋冬パリ・[[オートクチュール]]コレクションで披露され、ラフ・シモンズ自身のメンズラインは今後も維持される。また、クリス・ヴァン・アッシュはディオール・オムのデザイナーに留まる。ディオールは声明で新デザイナーが「21世紀のアイコニックなスタイルを推進する」と述べた。「最初にディオールでのポストについて聞かされた時、私は正しいと感じました。ディオールに行くというということは究極の挑戦であり夢の一つです。ディオールは絶対的な優雅さ、驚くべきフェミニンさ、完璧なラグジュアリーを表します。私はまだ、アーカイブを見ていません。しかし、私にとってディオールの最初の10年は非常に大きなインパクトがあります。それをどのように21世紀につなげるかです。ムッシュー・ディオールは非常に革新的でした」とシモンズ。 ラフ・シモンズは1968年、ベルギーのNeerpeltに生まれ、家具デザイナーとしてデビュー。1995年に自分のブランドを開始し、ミラノで1シーズン発表した後、パリに移動。2000年にはウィーン大学応用美術の教授に就任。2003年にはスイス・テキスタイル・アワードを受賞。2006秋冬コレクションから2012年秋冬まではジル・サンダーのデザイナーを務めていた。 **あなたにおすすめ関連記事 [#o70a1e99] #htmlinsert(googlecontents.html) ---- 出典: ファッション用語辞典『apparel-fashion wiki(アパレルファッション・ウィキ)』 CENTER:[[SHOP・BRANDページへ戻る>SHOP・BRAND]] [[TOP PAGEへ戻る>TOP PAGE]]
タイムスタンプを変更しない
***ブランドヒストリー [#x994460a] クリスチャン・ディオールは1905年、フランスのノルマンディーで裕福な実業家の家に生まれる。外交官を志して、政治学院に学ぶが、在学中に当時、台頭していたシュールレアリスムに魅せられ、友人と画廊を開設。ダリやコクトーなど多くの芸術家と親交を深めるが、30年代の恐慌に見舞われ失職。このとき、友人からデッサンを習い、1938年、ロゲール・ピゲに見込まれて[[モード]]界に入る。後に、ルシアン・ルロンのメゾンへ移るが、46年、マルセル・ブサックと出会い、12月にクリスチャン・ディオール・[[オートクチュール]]・メゾンが誕生した。ブサックは、繊維業界で成功した大富豪で、当時「コットン王」と呼ばれていた。ディオールはプサックに「エレガントな女性と最上級な女性のためのクチュリエになりたい」と語ったと伝えられている。この時、ディオールがプサックに会いに行く途中、ディオールは道に落ちていた星型の馬車の部品につまずく。それを拾って、ポケットに入れたままメゾン設立の夢を語った。以後、星はディオールののラッキーモチーフとなる。 47年、ディオールは初のコレクションで「コロール(花冠)ライン」を発表。これを、ハーパース・バザール誌の編集長カーメル・スノウが「ニュー・ルック」と呼び、この名前が広まる。[[ニュールック]]は、丸みを帯びた肩に胸、ウエストは細く絞られ、[[スカート]]は布を贅沢に使い(戦後すぐでモノがあまりない時代に)、[[ペチコート]]で膨らませたラインが踵まで伸びる女性らしさを引き出した華麗な[[スタイル]]だった。シャネルによって機能的な美しさがアピールされた後に、ディオールはフェミニンな美しさを改めて強調したのである。 また、1948年にはアメリカにおいてライセンス生産を開始。アメリカに「クリスチャン・ディオール・ニューヨーク」という別会社を作り、そこがニューヨークの靴下会社プレスティージ社と契約し「クリスチャン・ディオール」ブランドのナイロンストッキングの製造を許可した。これが、[[ブランド]]によるライセンス生産のはしりといわれている。後にライセンスは[[ネクタイ]]、下着、ソックス、[[アクセサリー]]と拡大し、80年代後半にはディオールは200を越すライセンスを抱えていた。また、同時にこの方式を婦人服にも応用し[[オートクチュール]]だけでなく、アメリカの既製服業者と組んで、ディオールのデザインによる[[ドレス]]を高級既製服、[[プレタポルテ]]としてアメリカでの製造・販売を開始した。[[オートクチュール]]から[[プレタポルテ]]へと拡大することで、ディオールはファッションを芸術だけでなくビジネスとしても成功させたのである。 続いて、48年にはジグザグライン、50年バーティカルライン、51年オーバル、52年シニュアス、53年チューリップ、54年Hライン、55年Aライン、56年アローラインと次々に発表し、センセーショナルを起こした。このシーズンごとに新しいラインを名づけて発表するというのもディオールがはじめたことである。これはマスコミにも受け入れやすく、一般大衆にもわかりやすくするためで、ディオールは戦後のファッション界が一部のお金持ちのためではなく、一般大衆の手にゆだねられることをこの時点で理解していたのである。1955年8月3日、ソルボンヌ大学大講堂でデザイナーとして初の講演を行う。ここで、ディオールは自らの仕事を「伝統を新しさの中に生かすこと」と語る。しかし、1957年10月24日ディオールは53歳の若さで心臓発作により急逝する。メゾンは若干21歳のイブ・サンローランが引き継ぐことになった。これにより、デザイナーの死後もメゾンは残り、[[ブランド]]を引き継ぐというビジネスモデルが成立することとなった。 サンローランは、確立されたメゾンの高度な技術に独創性を加え、初めてのコレクションでトラベーズ(台形)ラインを発表。多くの顧客に支持されたが、その後のホブル・スカート、60年秋冬の「ビートライン」は不評で、サンローランがアルジェリア戦争に徴兵されたのを機に、オーナーであるブサックは彼を解雇。マルク・ボアンをデザイナーに起用した。 マルク・ボアンは当時34歳。ジャン・パトゥのアシスタントだったときにディオールのロンドン店のデザイナーとして引き抜かれ、61年「スリムルック」、67年「サファリルック」、70年「マキシルック」で、従来からの顧客の支持を受け、デ・ドヌール賞も2回受賞した。 しかし、革新性にかけたデザインは徐々に衰退し、1968年には48年に設立された香水部門である「パルファン・クリスチャン・ディオール」がモエ・へネシー社に買収され、78年には親会社であるマルセル・ブサック・グループが倒産。ブサックは流通大手のウィロ兄弟によって救済され、アガッシュ=ウィログループに入るが、80年ブサックの死後、81年には公的救済(この時期のフランスは社会党政権)を求める事態となった。 1984年、ここにベルナール・アルノーが登場する。彼はフランスの投資銀行ラザール・フレールと組み、ついにブサック・グループを買収し、1985年4月1日、傘下のクリスチャン・ディオールを手に入れ、自らが社長となった。そして、1989年5月、次のデザイナーとして、イタリア人のジャンフランコ・フェレを[[オートクチュール]]とレディス・[[プレタポルテ]]、[[アクセサリー]]の責任者に据えた。フェレは1944年、イタリアに生まれ、ミラノ工科大学建築科を卒業。一部にはフランスのブランドがイタリア人をデザイナーに起用したことへの反発もあったが、89年7月のフェレによる初めてのコレクションである89秋冬オートクチュールコレクションにおいて、「[[ニュールック]]」をモチーフにしたデザインを発表し、デ・ドール賞を受賞。不安を吹き飛ばす。 さらにアルノーはライセンス生産も絞り込んだ。90年アルノーはLVMHの社長に就任。そして、96年ディオールは次のデザイナーとして、ジョン・ガリアーノを指名することとなる。当時、ガリアーノは同じLVMHグループの「ジバンシー」のデザイナーだった。彼はこのとき36歳、1960年ジブラルタル生まれのイギリス人で、6歳のときに両親とともに渡英。義務教育終了後、セント・マーチンスに入り、テキスタイルを学んだ後、ファッション科に移籍。卒業制作のコレクション「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンのブティック「ブラウンズ」のショーウィンドウを飾り、好評を呼んだことでブラウンズと5年間の契約を結ぶ。デビュー当初は[[ジャケット]]を[[ボトム]]に使った「さかさまの服」など、[[アバンギャルド]]さが話題を集めた。一方で、カッティングとバイアスの確かさにも定評があり、古典や世界中の衣装から、そのときのトレンド[[アイテム]]を巧みに自分のコレクションに取り込む能力が高く評価されていた。 ディオールに移る前に2シーズンだけジバンシーのデザイナーを勤め、ついに97年春夏、初のディオールコレクションを発表。ちょうど、ディオールが「[[ニュールック]]」を発表してから50年にあたり、ガリアーノは現代版[[ニュールック]]を発表。丸い肩で胸を強調し、パッドを入れた腰に細いウエスト。[[スカート]]がミニになったのが、現代らしさを表している。また、このときのテーマは「マサイ族」であり、後にこれが香水「ジャドール」につながっていく。 2000年春夏コレクションでは、ボロ布ドレスを発表。コレクションではモデル一人につき、1体のアイテムしか使用しない(モデルは着替えずに、着るのは1着のみ)という贅沢なコレクションを開催し、[[オートクチュール]]、プレタともに、現在のトレンドをリードする一人である。メンズは、ディオール・ムッシュのチーフデザイナー、パトリック・ラヴォワを経て、2001年1月からはイブ・サンローラン・リヴ・ゴーシュから来たエディ・スリマンが「ディオール・オム」を担当。 エディ・スリマン(Hedi Slimane)は1968年パリ生まれ。1997年、イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ オムのアーティスティック・ディレクターに抜擢され、2001-2002秋冬コレクションより、ディオール・オムのクリエイティブ・ディレクターを務める。2003年7月3年間の契約延長をし、メンズフレグランスのクリエイティブ・ディレクターも兼任する。日本でディオール・オムを扱っているのは、銀座、表参道、神戸、新宿伊勢丹、名古屋松坂屋、岩田屋の6店。 2004年7月、2005年春夏パリ・メンズコレクションにあわせてエディ・スリマンによるディオール・オムの新作フレグランス、Eau Noire、Cologne Blanche、Bois D’Argentの3つを発表。ディオール・オムのブティックなど全世界16店で発売される。価格は、500mlが160ユーロ、125mlが80ユーロ。また、12月には香料入りのろうそくが発売。Cologne Blancheは、ローズマリー、オレンジ、バーガモント、バニラノートを含み、Eau Noireは、普段エディ・スリマン自身が着用している香りで、バニラ、ラベンダーなど。Bois D’Argentは、ウッディ・フレグランス。2006年クリスチャン・ディオールの59年の歴史の中で初のメンズ・ビューティラインとなるメンズスキンケアライン「Dermo System」を開始。 2006年の後半からディオールとエディ・スリマンの契約交渉が難航しているとの噂が流れ、スリマンの契約は2006年7月に終了したが、更新されず、以後、交渉が続いていた。2007年3月、クリスチャン・ディオールは、Kris Van Asscheがディオール・オムのアーティスティック・ディレクターに指名されたと発表。クリスチャン・ディオール・クチュールのSidney Toledano社長兼最高経営責任者は、「私たちが既に持っている高品質チームとともにKris Van Asscheがディオール・オムの開発を行うことを発表できて、私は嬉しく思います」と述べた。 辞任直後にエディ・スリマンのコメントは発表されなかったが、2007年4月、エディは自分のサイトで「私は、一緒に仕事をしたミュージシャン、モデル、写真家、私のデザインを製造した人々、私のコレクションを支援した小売り業者すべてに感謝します。私はベルナール・アルノーに感謝します。彼は私を信頼して、このプロジェクトを私に任せてくれました。私はそれを開発できて幸せでした。彼が今でなくてもいつの日か私の決定を理解してくれることを望みます。今、私は、私の主義と私が持っているファッションについての考えに忠実にあることが非常に重要であると思いました。私はディオールからの親切な提案を拒否し、新しいディオール・オムの契約を断わる以外に選択権はありませんでした。2月の私の最後のショーの直後にこれを明らかにし、ロサンジェルスへ発ちました。私は、ディオールから去り、別な行動をすることを決定しました」とのコメントを明らかにした。また、2007年5月のLVMH株主総会では「なぜ、Hedi Slimaneはディオール・オムを去ったのか」という質問があり、ベルナール・アルノーはスリマンを引き留めるためにあらゆる努力をしたと言い、「彼は、私たちの経済的援助を得ずにシグネチャーブランドを開始できると考えたようです。私は、彼の新しい活動の成功を祈ります」と答えた。 アッシュは2007年夏の2008春夏パリ・メンズコレクションで最初のディオール・オムを披露。アッシュは[[プレタポルテ]]と[[アクセサリー]]を担当し、エディ・スリマンが手がけていたフレグランスとスキンケアは含まれない。「クリスチャン・ディオールはクチュールの絶対的なイメージがあり、アトリエの遺産およびユニークなこの家に参加できて、私は非常に嬉しい。この仕事は私の強力なベースになるでしょう」とアッシュ。 クリス・ヴァン・アッシュ(Kris Van Assche)は1976年、ベルギー生まれ。98年、アントワープ王立芸術アカデミー卒。エディ・スリマンのアシスタントとして、イヴ・サンローランとディオール・オムを7年間手がけ、2005年1月にはシグネチャーブランドを開始。2005年秋冬のパリ・メンズコレクションでデビュー。2007年春夏のコレクションでは、初めてレディスを数点発表した。シグネチャーラインは今後も継続される。 2009年10月末、ルイ・ヴィトンのコスチューム・ジュエリー・デザイナーだったCamille Miceliがクリスチャン・ディオールにおけるコスチューム・ジュエリーラインのアーティスティック・ディレクターとレザーグッズラインのマネージメント・アーティスティック・アドバイザーに就任。 Miceliは1971年生まれ。複数の有名[[ブランド]]でのプレスを経て、シャネルで7年を過ごした後、ヴィトンに参加。PR部門を率いている時に友人であるマーク・ジェイコブスが彼女の創造性に目をつけ、2004年春ヴィトンで最初のコスチューム・ジュエリー・コレクションを発表。ディオール・ファイン・ジュエリー部門のトップは引き続きVictoire de Castellaneが務める。 2009年12月、ディオール・オムのクリエイティブディレクター、クリス・ヴァン・アッシュは女性のための新ディオール・オム・デニムを発表。コレクションは「Petite Taille」(スモール・サイズ)と名づけられ、2010年に開始。ディオール・オムにおける初のレディスとなる。「ディオール・オムは常に女性にアピールしていました。したがって、私たちはディオール・オムジーンズのレディス・バージョンを発売することに決めました」とアッシュ。Dior Homme Petite Tailleデニム・コレクションは2010年初めに全世界のディオール・オムショップで発売され、価格は270-785ユーロ。 2011年2月24日の夜、ジョン・ガリアーノがパリのマレ地区のバー、La Perleでカップルに対し、ユダヤ人差別の発言を行ったとして逮捕された。ディオールはこれを受け、ジョン・ガリアーノのディオールでの活動休止を発表。「ディオールは人種差別主義的発言および行動を禁止しています。真実が明らかになるまで、クリスチャン・ディオールはジョン・ガリアーノの活動について休止させました」とディオールの最高経営責任者シドニー・トレダノ。その後、英大衆紙のThe Sunは自社のウェブサイトで2010年10月にガリアーノがLa Perleでユダヤ人差別発言をしているビデオを公開。このビデオでは明らかに酔っているガリアーノが女性に向かって、「アイ・ラブ・ヒトラー。あなたみたいな人たちは死ぬべきです。あなたの母親もあなたの祖先もガス室で死にました」と話している。 その後、クリスチャン・ディオールはジョン・ガリアーノを解任。「私は、ジョン・ガリアーノの発言を強く非難します。それはクリスチャン・ディオールが常に保持していた本質的な価値観と完全に矛盾します」とディオールの社長兼CEO、シドニー・トレダノ。ガリアーノに直ちにリハビリ施設に入院した。 2012年4月9日、クリスチャン・ディオールはラフ・シモンズがジョン・ガリアーノの後任としてアーティスティック・ディレクターに就任したと発表。ラフ・シモンズは[[オートクチュール]]、レディスの[[プレタポルテ]]、[[アクセサリー]]を担当。最初のコレクションは7月の2012年秋冬パリ・[[オートクチュール]]コレクションで披露され、ラフ・シモンズ自身のメンズラインは今後も維持される。また、クリス・ヴァン・アッシュはディオール・オムのデザイナーに留まる。ディオールは声明で新デザイナーが「21世紀のアイコニックなスタイルを推進する」と述べた。「最初にディオールでのポストについて聞かされた時、私は正しいと感じました。ディオールに行くというということは究極の挑戦であり夢の一つです。ディオールは絶対的な優雅さ、驚くべきフェミニンさ、完璧なラグジュアリーを表します。私はまだ、アーカイブを見ていません。しかし、私にとってディオールの最初の10年は非常に大きなインパクトがあります。それをどのように21世紀につなげるかです。ムッシュー・ディオールは非常に革新的でした」とシモンズ。 ラフ・シモンズは1968年、ベルギーのNeerpeltに生まれ、家具デザイナーとしてデビュー。1995年に自分のブランドを開始し、ミラノで1シーズン発表した後、パリに移動。2000年にはウィーン大学応用美術の教授に就任。2003年にはスイス・テキスタイル・アワードを受賞。2006秋冬コレクションから2012年秋冬まではジル・サンダーのデザイナーを務めていた。 **あなたにおすすめ関連記事 [#o70a1e99] #htmlinsert(googlecontents.html) ---- 出典: ファッション用語辞典『apparel-fashion wiki(アパレルファッション・ウィキ)』 CENTER:[[SHOP・BRANDページへ戻る>SHOP・BRAND]] [[TOP PAGEへ戻る>TOP PAGE]]
テキスト整形のルールを表示する